曇り。雨まじり。
湿度が高いが気温がそれほど高くないので過ごしやすい。
夢を見た
校舎内にいる。夏なのか日差しが強い。
いつものように校舎内をさまようが、切迫感は特にない。
他の生徒も思い思いに過ごしている。(終わり)
思ったこと
目が覚める。今日の夢は穏やか。もっとたくさん色々あったが忘れてしまった。
ネットで動画を見る。旅行関係。
見ながら思う。何だかわからないけれど楽しそうだな。
理屈はない。素朴な感覚。
何故か小学生だった頃の音楽の授業を思い出す。
自分にとっては苦痛でしかたがなかったあの授業も、他人にとってはとても楽しい・あるいはたいして気にならない(他に楽しいことがある)、ということもあったのかもな。
そういう素朴な感覚で生きられる人間は人生を楽しめる。とてつもないことをしなくても満足できる。大きな理屈は必要ない。そういうことだろうか。
海外のゲーム実況者の動画を見る。彼らの部屋は好きなもので埋め尽くされている。それが許される環境。これもすごいな。のびのびと育っている。さっきの気づきのおかげでそれがわかる。
少し羨ましい。もっともオタクの彼らの部屋や生き様は純度?が高すぎ・過激すぎだと思うけど。
こういうことに気づくということは、ある程度自分を突き放して見れるようになったのか。
何で自分にそれができなかったのか? のびのびできなかったのは何故か。そんな単純な話でないけれど、この気づきを叩き台にして考えてみる。
自分の内面にまで母や信者の都合が入り込んできたせいか。
「自分たちのやっている勉強に参加する余裕はあるか?」なんて彼らは聞いてくる。一見丁寧に相手の意思を尊重してたずねているように聞こえるが、実際には彼らの勉強に参加するか・しないかの二項対立の図式に相手を引きずり込んでいる。それ以外の選択肢や考え方を消してしまっている。
さらに“勤勉“という一般的に見て“いいこと“とされるアイデアを突っ込んでくるので、断る方がとてつもない罪悪感を感じることになる。
そうやっていつの間にか考えの方向性を決められている。使える選択肢が減っている。
だから付き合えば付き合うだけ息苦しくなっていく。常に監視されて評価・採点されている感じになる。
実際には断っても勤勉でなくなるわけでもないし、そこまで勤勉である必要もない。他にも大切なことはある。考えない・やらない、ということだってとても大事だ。そのことに気づくのに何年もかかった。彼らの考え方が無意識に身についてしまい、物事を休んだりやめたりすることができず心身を壊してしまった。
権威や勤勉という美徳?を他人に無理をさせるための方便として使う。
そうか、彼らはかなり内面に踏み込んできていたのだな。表面的な脅しや暴力だけでなかった。そっちはわかりやすいから自覚するのはそれほど困難でない。
かなり露骨な洗脳だった。というかひどい教育だ。自分のしたいこと・性格を出せる余地がない。そういうことか。
何だよ。インチキの塊じゃないか。これだけの無理をする必要があるということはやっぱり道理に合わないことをしているんだ。というか考える以前にこんなにトラブルが起きている時点でそれに気づけよ。
あれは表面上宗教の形をとっている別の何かと考えた方がいいのかもしれない。
そんなことを思った。
これまでのブログを少し読み返してみる。だいぶん性格がキツくなってきたな、と思う。
大変なものを抱え込んでいたんだな。心と記憶の消火活動とその後の復興。