晴れ。
オリンピックの開会式の日。
オリンピック以前にいろいろありすぎてお腹いっぱいだ。
このイベントはコロナ騒ぎがすんでから思い出すことになるのだろうな。
スポーツを見ると和むのは事実だ。それも大事。
問題は腑分けして考えないといけない。
思ったこと
以前なぜ算数が苦手だったのか記事にしたことがある。2021年6月17日の記事。(ブログを無料版に戻そうと思っているのでリンクは貼りません。便利なようで不便)
受験戦争時代を生きた自分はなぜ落ちこぼれてしまったのかいまだに考えることがある。(私は一つの話題をしつこく考え続けるタイプの人間です)
それで今回気づいたこと、
”実世界の現象や運動をとらえるのは大変でかなりの工夫がいる”
ということだ。これは算数や数学だけではない。物理や実生活をあつかう国語などの科目もそうだ。
工夫の積み重ねで文明や考え方の次元が上がったのだと思う。ということはそれがわからないといつまでも文明以前の世界を生きることになるのか。これも一つのアイデアだけれど。
どういう考え方でこの世界をとらえにいっているのかもセットにして教えてくれ。そこが一番の肝だ。それがないとわからない。
かなり無茶な?工夫なのだから、きちっとした説明が必要だ。文学などの分野もけっしてムードや心情の問題(だけ)ではないと思う。背景となるものがあるはずだ。
はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
大学受験のころを思い出す。もう何十年も昔の話。今の時期だったら夏休みで予備校に通っている時期。模試などもあって本当にヒリヒリしていた。(さぼってゲーセンに行っていたけれど)
今考えてみると順位なんて2000人の人間がいれば自動的に1番から2000番までの順位ができあがることになるだけでそれ以上でもそれ以下でもなかった。ただのそういう事実だ。病的に気にしすぎた。やりたいことがあって、行きたい学校に入るのにある程度の順位に入らなければならないというなら別だけれど。つまり本末転倒だった。
そういう外側からというか、問題を突き放して見た視点は重要だ。
そして入試当日。自分は推薦だったので書類選考と面接だけだった。面接では緊張しすぎて固まってしまい喋れなくなった。試験官にほぐしてもらって何とか切り抜けることができた。
固まって喋れなくなってしまったこと。あれは「お前本当にそれでいいのか?」という自分自身からのメッセージだったのだと今は思う。行きたい学校や分野などでずいぶん葛藤や妥協があった。
ただ、あの頃の自分に何か言葉をかけてやるとすれば、
「あんな状態でまともなことを考えるのは難しい。自分が何でもできると思っちゃいけないよ(それが余計なプレッシャーになる)」
だと思う。それが大人の役割ということなのかな。
やったことが全部自分の責任になる、と考えたら怖くて動けなくなる。(世の中はたぶんそういう風にはできていない) そこをほぐしてやるのも大人の役割。