曇り。
台風のせいか風が強く蒸し暑い。
思ったこと
また、これまで自分に起きたことを考えてまとめたので書きます。これまでも延々とやっている。そういうブログ。
考えるときはたいてい精神状態がかなり悪い。
同じようなことを書いているうちに少しずつ考えがまとまってくる。古典的なトラウマセラピー? 読んでいる側が面白いかどうかはわかりませんが。
で考える。世の中には罪に問われないとわかったら途端に悪いことをしだす人間が一定数いるという。あるいは罰せられないということは悪いことではないのではと考える人間。
そういう人間は法律や権威をうまく使う。というよりも実際はただ他人の意見にぶら下がっているだけという人間が多そうだ。
そういう人間は自分たちのしたことで目の前で困っている人間がいたとしても全く問題にしない。
それどころかいかにも立派そうな行動や意見を言うことでよい人間です、アピールをする。それはかなり成功している。
一体どういうことなのだろう。・・・対話拒否だ。目の前の人間との対話を拒否している。立派そうな意見や行動は目の前の人間との対話の文脈から完全に離れてしまっている。それでもまともそうに見えるのが厄介だ。彼ら自身もそれに騙されている。
ということは目の前の人間との対話がベースにないとダメなのか。理屈ではなく生身の人間や世界を見る。
頭でっかちで行動力のある人間のこわさ。頭でっかちといっても得た情報について自分で考えて消化したものではなく他人の意見の受け売りなのが厄介か。呪文のように他人の意見を言う。言葉やモノを拝んではいけない。それを使いこなす。
自分でやっているのに自分の責任ではない。そんな感じか。大きな組織の問題?
理屈そのものよりも考え方や世界との付き合い方などの面で問題がある? ビルドアップやしつけに失敗した? 理屈を自分で使いこなせるようにならないといけない。それが教育だろ。詰込み教育とは真逆だな。
理屈との格闘や生身の世界との付き合い。なぜかカンフーや仙人が思い浮かぶ。音楽もそうか。割と苦手な分野だな。コミュニケーション。
こんなことを必死に考えなくてはいけない環境はつらい。切実な問題。現実世界から切り離された理屈が突っ走るとなぜかたくさん人が亡くなる。他人の命が頭の中の理屈や記号に過ぎなくなるのか。メディアの発達がそれをさらに加速させている? 考える余裕もなく動く。組織や理屈にズブズブに同化している。
おれはあんたの頭の中に住んでいるわけじゃないんだぜ。目の前にいるだろうが。と言いたい。
そんなことを考えてかなり精神状態が落ち着いた。やっぱりセラピーか。
今週のお題「やり込んだゲーム」
このお題でゲームセンター(通称ゲーセン)のことを思い出す。昭和のゲーセンは暗かった。タバコ・喧嘩・カツアゲ、そんな感じだった。”○○高校の生徒は出入り禁止”という貼り紙もあったりした。
そこに新しい風を送り込んだのがセガの大型筐体だった。「アフターバーナー」「スペースハリアー」「アウトラン」などだ。音楽も格好良かった。ただあまりやった記憶はない。高いし(普通のゲームの倍くらいの値段がした)、目立って恥ずかしい。
そこからさらにしばらくして「ストリートファイターⅡ(ストⅡ)」が出て一気にゲーセンのカジュアル化が進んだと思う。自分は波動拳も出せないヘタレだし対戦も嫌いだったけど。遠目から観察するのが自分のスタイルらしい。というかそういう順応の仕方か。だから正確にはプレイしたゲームではなく、ゲーセン観察日記だ。
その後ゲーセンはどんどんおしゃれになりクレーンゲームやプリクラなどが出てきたが、そっちのほうには全く縁がなかった。(悲しいことだ)
ゲームメーカーも自前でアミューズメント施設を作るようになったのもその頃だと記憶している。ナムコの「ワンダーエッグ」「ナンジャタウン」など。横浜にもセガの施設があった。これらには何回か行った。
さらにしばらくしてカードを使うゲームが出てきた。ヨーロッパサッカーを題材にした「WCCF」など。WCCFは少しだけやってみた。スター選手でないレギュラーカードばかりのチームをあえて作って遊んでいたが、スターやレジェンドばかりのチームに時々勝ったりして対戦相手にものすごく嫌がられた。(わがチームは小規模で金のかからない運営をモットーにしています。そういう設定で遊んでいた)
この時代のゲーセンに言えること。金がかかりすぎる。1プレイ300円とか500円とかが当たり前だった。この頃からゲーセンに行かなくなった。
最近は全くゲーセンに行っていないがどうなっているのだろうか。噂ではおじいちゃんおばあちゃんがメダルゲームをしていると聞いています。