晴れ。かなりの湿度。
掃除機をかける。
忘れがちなこと。掃除機の掃除。
道具のメンテナンス。
夢を見た
学校の教室にいる。教壇の横になぜかボクシングのリングがある。
リングの上には年配の男性が一人。やるか?と男性に尋ねられる。
リングに上がる。適当にあしらわれる。完全に遊ばれた感じだ。お互いグローブすらつけていない。
それでもとても楽しかった。自分の中の獣を感じた。
でもこんなことはこりごりだと思った。これで最後でいい。
校庭に出る。何かの行事らしい。終わって教室に戻る。下駄箱に来るがどれが自分の上履きだかわからない。皆似たような(というか全く同じ。履きつぶしかた・汚れかたで個体差が出ている)デザインのせいだ。イライラする。(終わり)
思ったこと
今、「アート・スピリット」(ロバート・ヘンライ著 国書刊行会) というタイトルの本を読んでいる。私はだいたい3冊くらいの本を同時に読むことが多いです。
書かれている絵画の技法については全くわからないがワクワクする言葉がある。
すべての芸術表現は、人が漠然と感じながらいまだ所有できないものを求めてさまよう魂の成長の道標である。
(「アート・スピリット」69ページ)
などだ。(蛇足だけど魂という言葉は日本人には違和感があると思う。私だけか)
あと”自身の動機(モチーフ)がはっきりしていないのに技法を学んでも無意味だ”、という意味の言葉があったのだがブログを書くにあたっていくら探しても見つからなかった。この言葉を見つけたことがこの本を購入するきっかけになったのに。
この本を読んだから上記のような夢を見たのだろうか。
考える。”良心”というものは倫理ではなく(宗教ですらない?)アートに属するものなのかもしれない。野生の知恵? 心の中に芯ができる?
自身の経験からいっても、ごまかすために立派な言葉を吐き散らかす人間がまわりに大量にいたので学問や言葉ではないのかもしれない。言葉を判断する知恵が必要か。
何かの状況になったときに、・・・おかしいぞ。となるのはアートに関係がある野生の知恵なのだろうか。
となると良心というのは倫理ではなく美意識の問題だった? だとすればそれは言葉で説明しきれるものではないのではないか。
説明すればわかるなんて無理。説明するふりをして力づくで押し通すやつもいた。というかそういうのが大半だった。言葉の暴力の実践。
アートか。そんなこと考えたこともなかった。まわりにいたアートをやっている人たちは男性は荒くれ者や困ったちゃん、女性はやたら真っすぐな人たちだった。彼らと付き合いがあった当時は特に気にも留めなかったが、彼らの中にそんな知恵が? いや、わからないことはわからないということにしておこう。
知恵というのは自分の中から取り出してこないと力を持たない・使いこなせない、ということかも。
こういう説明の仕方もあるし、ああいう見方もあるから一概には言えないよね、ということではなく、そんなことをしたらダメだぞ、迷惑をかけた家にやってきてヘラヘラ笑っているのはダメだぞ、ということか。私の苦手な分野かもしれない。生き物としてのバイタリティーがかなりないとできないな。
そんなことを考えた。