曇り。
体育の日は10月10日。
以前の通りで安心する。
変動するのはやめてほしい。
そもそも今は「スポーツの日」か。
ブログの中で、あれこれ考えてそのことを書いている。
そして気づく。学校の制度から脱落するってかなり深刻な出来事だ。
スタートからつまずいている。そのことに気づかずに突っ走っていた。
(昔の)RPGゲームにたとえていえば、物語の終盤になってから
「あれ? 最初の城で王様に話を聞くの忘れてたわ」
ということに気づく。そういうレベル。ゲームだと詰みだ。
でも人生はゲームじゃない。リセットはできない。はじめから目的が決まっているわけでもない。何があってもLIFE GOES ONだ。
ラスボスを倒すコース?(正規ルート)は他の人間に任せる。(しかない)
気づいたからといって特別なことはできない。今までと同じように洗濯・買い物などをする。
ただ、もう少し本を読んだほうがいいと思う。考えることが生命線(というか自分はそれしかできない)だからだ。
それに脱落したからといっても、何もしていないわけではなかった。家庭内の問題に対応したり、母の入信している教団に抵抗していた。それはすさまじい経験だった。
でも何であそこまで強硬に抵抗したのだろう。彼らの言葉の使い方が許せなかったのだと思う。言葉の持つ雰囲気だけを利用してポイントを稼ぐやりかた。
自分はそれが許せなかった。はっきり言えばあれは嘘つきだ。
人間の根底にある信頼や大事な何かをめちゃくちゃにしている。子どものころの私はそう思ったのではないか。
それで抵抗した。子どもなので精神的におかしくなったり、揉め事を起こしたり駄々っ子のような抵抗。それくらいしかできなかった。
もっとも彼らは自分の都合しか考えないので、相手が自分たちのしていることでおかしくなっているなんて思いもしなかったらしい。空回りだ。
こっちにも至らないところはあるし、トラブルがあるとはいえある程度お世話になった人を批判するのはおかしい、という人もいる。
もちろん自分はろくでもない部分は大量にある。それは当たり前のことだ。
そうではなくて、自分の中で筋を通す、そのための作業だ。それがどうしても必要。
他人がどうこうという相対的な話ではない。
自分は何が大事で、どんなことが許せないか。それをはっきりさせる。これは誰かの都合に合わせるわけにはいかないことだ。
これが大人になるということらしい。
本当に学校的なものやマニュアルとは相性が悪い。でも自分が学校的なものに適応する才能があったら、教団の活動にも適応してしまい、たくさんの人を不幸にしていたかもしれない。
そう思うことにする。
こうやってガチガチに考えや意見を固めていかないと自分のいる環境では生きていけそうもない。そんな風に思いはじめた。
まったく大変なことだよ。自分は本来は怠け者なのにさ。
必死に考えていると他人に目を向ける余裕が全くなくなる。向けてしまうと何を考えていたのか分からなくなる。