晴れ。
近所の学校で運動会。
保護者は入れず。
そういう時代。
夢を見た
車を運転している。なぜか奥さんとかいう存在が助手席に乗っている。
夢の中でも戸惑っている。小さなクリニックに到着する。
車ごと建物に突っ込む。運転しているのは奥さんになっている。
院長が出てくる。私が運転を代わり何とか人間にぶつけないように動かす。
院長とおいしいたい焼き屋の話をする。皮がパリパリのやつとふっくらしたやつ。両方ともおいしい。
おいしいたい焼き屋がある場所とそこのローカルな話題を話す。地元の高校野球部が強豪校を倒した話とか。
私も奥さんもたい焼きを作ってきたので院長に食べてもらう。奥さんのたい焼きの中身はハムやキャベツなどだ。おかずたい焼きか。
私のたい焼きも食べてもらう。中身はあんこ。砂糖を入れすぎだったのではないかと少し気がかり。あんがおいしい、と院長が言う。小豆がいいからね、と私はこたえる。
うちであんこを作ってそれを車に乗せてしばらく寝かせてからたい焼きを作ったのがよかったらしい。
それにしても、いったいどこでたい焼きを焼いたんだ? 車の中か? と夢の中で疑問に思う。(終わり)
思ったこと
今、「世界史とヨーロッパ ヘロドトスからウォーラーステインまで」(岡崎勝世著・講談社現代新書) という本を読んでいます。
ギリシャの昔から近代まで歴史というものをどのようにとらえてきたか、その変遷を書いた本。
(この本もそうだが、最近思うことはどの時代でも真剣に考えて前の時代のアイデアを乗り越えて、ということの繰り返しのよう。だからどの時代が劣っているとか一概には言えなさそうだ。その流れをつかまなければ意味がない)
自分が気になったところは中世の時代の話で、それまで延々と循環するだけだった時間に、キリスト教の考え方からはじめて始まりと終わりが出てきた。
どうもキリスト教徒というのはいつ終末が来るのかということをずっと気にしているらしい。その問題はキリストがいなくなってすぐ出てきたようだ。それで聖書を読んで年代計算を一生懸命何度もやっている。
古代ギリシャも中世以後も、時間にははじめも終わりもない、ということになっているのにこの時代だけ特殊だな、というのが自分の感想だ。
この時代だけ外の世界の情報や事実?(認識の限界はやまのようにあるけれど) によらずに本の中に正解があらかじめあることになっている。
不思議な話だな。なんか違和感がある。
これは自分の勝手な想像だけれど、古代は神の存在などをもっと直接的に皮膚感覚で感じ取っていたのではないかと思う。
終末が来る、というのを理屈でなく実感としてヒリヒリと感じていたのではないだろうか。
実感だから”いつ”という話ではなかったのでは。それを具体的にいつ来るかという話にしたからおかしくなったのではないかと勝手に想像する。
そこに理屈の入り込む余地はない。学者ではなく詩人的なセンスの問題だった?
本の中からではなくこの世界から直接情報をもらわなければいけないのでは。そうでないとおかしなことになる。それをやるためにはかなりのセンスがいるけれど。
しかもそのセンスは個人のものなので他人がどうこうということはできない。そこをあーでもないこうでもない、と言い出したからからおかしくなった?
本の内容から脱線してしまったがそんなことを考えた。まあ自分の妄想なんだけど。
それにしても本の中でもそうだがキリスト教徒の話し方は特殊で読んでいて混乱してきた。やっぱり私はこういうのは合わないや。
といっても実際に生きている人の中にはいろいろな人がいると思う。でもそうやってあまり話を広げすぎると訳が分からなくなるのでやめる。
本などの他人が加工した情報によるのではなくこの世界から直接情報をもらう。その態度。そうすればそんなに間違いは起きない。(あくまでそんなに、だと思う)
これが基本なのか。でもこれってかなり高度なことだよな。まいったな。
外のどこかにあらかじめ正解があることにしてはいけない? それはけっこうしんどい生き方かもしれない。