曇り。
昨日とうって変わって肌寒い。
今年も3.11が過ぎた。12年という月日が長いのかどうなのかわからない。
間にコロナという別の大きな出来事もあった。そのせいでもありそう。
あの日は通院していた病院から自宅まで歩いて帰った。
自宅についたのは夜中だった。
こういうアクシデントが起きた時には動かないでその場の避難所に行くのを推奨されている。
あの日も避難所が開設されたという駅でのアナウンスを聞いてかなりの人間がそこに向かっているのを見た。
よく訓練されていると思ったと同時に、当然のようにたくさんの人間が指示に従って動いているのを見て何故か漠然とした不安をおぼえた。
自分は帰らなければいけない。こんな事態になったら、自分の親は何をする(しでかす)かわからないから、そばにいないと。無理して帰ったのにはそんな気持ちもあったのだと今は思う。
また考える。家庭内の問題。
ニュースではかなり頻繁に宗教団体のニュースを報じている。今回がいつもと違うのは報道されている内容がかなり具体的だということだ。
うちの母もとある宗教団体に入信している。自分は子どものころ連れていかれた。しばらくして、おかしいと思うようになったのでやめた。結果かなりのダメージを負ってしまった。
気味が悪いのはそういうニュースを観た母親のリアクションが驚くほど薄いということ。上から騒ぐな・反応するなとか言われているのだろうか。それとも問題が何なのか今一つわかっていないのか。本当に自分とは関係のないことだと思ってすらいるのでは。それは怖い。
あの事件から一気にいろんなことが明るみに出ているが、うちのまわりではそんなに目立った変化はない。
これまで何十年ももめてきたことがほんの数年で変わることはないかもしれない。”もめている”と思っているのは私の側だけで、向こうは何も考えていなさそうですらある。ただ言われた通りに動いているだけ。あとのことは知らないといった風に。
こちら側がきついのはそのせいでもある。あちら側との意識のギャップがありすぎる。それに運よくそこから抜け出せても、今度は世間との間にかなりの溝がある。必死で抜け出せたのに、今度は世間に向かって自分が抱えているトラブルをわかるように立場を説明しなければならない、という困難。自分だって何だかよくわかっていないのに。
ただ世間の理解は今度の事件でかなり進んだと思う。たとえ理解はしてもらえなくても、何かとてつもなくややこしい問題がある、ということはある程度わかってもらえたのではないか。
あっちの側はどうなのだろうか。変わるのを期待するのはかなり望み薄ではないか。権力などが外側から何とかする必要があると思う。彼らはかなり頑固でおまけに受動的だ。自分から動くということは難しいのではないか。
YouTubeでいくつか動画を観る。motovlogやゲームの実況動画など。
ネットでは誰かがこんなひどいことをしたとか、陰謀論・過激な言動などをしたと大騒ぎしている。自分もどこかでネットはそんなものばかりだと思っていた。
でも今回、彼らはただ楽しんでいるだけだと思った。おおもとにあるのはそれではないか。もちろん仕事だったり、きついこともあるとは思うけど。基本的にはやりたいからやっている。
何でそんなことに気づかなかったのだろう。
どうやら楽しんではいけない・基本的に仕事や勉強など生活とはつらいものだ。という相当強い思い込みがあったらしい。
というか楽しむことにかなりの罪悪感があった。そこにやっと気づいた。楽しむこと自体は別に悪いことでも犯罪でもなかった。
これも母や母の団体の影響なのだろうか。楽しむことは苦役を延々とやった人間だけが、ほんの少しだけやっていい権利が与えられるものだ、とずっと無意識に思ってきた。
どうやらそうではないらしい。文章にしてみると非常に間抜けにみえる。だけど何十年もそのことがわからなかった。
これでは判断を誤って当然だった。
楽しみはどこかの他人がそうすることを許可したり与えるものではなかった。
やっぱり結構大きな変化がきているのかもしれない。